コミュニケーションとは「教え諭す」のではない
「科学技術コミュニケーション」の講義も終わり、レポートに取り組む時期になっているのだけれど、最近のディスカッションを読んで思った事を書いてみる。
「コミュニケーション」とは「教え諭す」ことではない。
開催する側が、科学知識をもって人々を啓蒙するのだ、正しい知識を植え付けるのだ、というスタンスでいては、参加者を科学嫌いにし、不信感を募らせてしまう事になるだろう。
「知性」は上位にあり「感情」は下位にあるものだ、「知性」で判断すれば正しい答えはひとつしかなく、それができないのは「感情」に捕らわれ「科学」を知らない人のおろかさゆえだ…などという考え方では、誰とも「コミュニケーション」などとれるわけがない。
それを「欠如モデル」というと講義されたのに、知性を語る人が理解できていないとは、なんとも皮肉なことだ。
「トランスサイエンス問題」とは、「科学・技術と社会との相互作用で生じる、科学で問うことはできるが、科学で答えることはできない問題 」のことを言う。
それも講義にあったのに受け入れようとせず、科学は万能でありすべての答えをひとつに収束させるのだ、という考え方にこだわる人。
そういう人も、その考え方に、感情的になってしがみついているように思える。